●今でも尊敬するK師のこと

予備校時代の恩師についての話、前回の現代文F師に続き、古文K師の思い出を記していきます。前回のブログも今回も予備校時代と書きましたが、私が学んだ学校は、正しくは予備校ではなく、予備学校という名称でした。この名称、私が在籍した年度に予備学校に改称したものと記憶しています。受験のための予備校ではなく、大学で学ぶ基盤となる学問を学ぶ場だという本校の誇りを感じ取ったものです。さて、現代文は、当然のことながら大学に入学した後も、社会に出てからも毎日接してきたわけですが、古文にふれることは、ほとんどなく過ごしてきました。それでも、予備学校時代の一年間、K師に学んだことは良い思い出です。今でも、尊敬する人物の一人であることに変わりありません。

先生に学んだのは、昭和五十年代の半ば、先生は既に七十代になっていらっしゃいました。私は、先生の姿に、なんとも言えぬ神々しさを感じたものです。昭和四十年代には、「東大生の尊敬する人物」に歴史上の人物や当時の政財界や学問の分野で活躍されていた方に伍して、上位に選ばれていたそうです。時には一位になったこともあるようです。このことは、当時の新聞で大きく報道されました。ちなみに先生は、東大の出身ではありません。このような評価は後からついてきたものですし、先生ご自身は、そうしたものには全く興味がなかったことでしょう。これから、授業で私が感銘を受けたことを記していこうと思います。

●古文が読めるようになるまで

当校の看板講師のお一人ということで、当然期待をして授業に臨みました。そしてどのような授業だったかを今でも思い出します。高校時代、私は現代文以上に古文が苦手でした。たしかに、高校の授業では、助動詞の活用を学び、どのように活用するかを覚えました、「せ、まる、き、し、しか、まる」というように。意味はともかくとして、このフレーズをいまでも忘れません。そして、単語の意味もテキストに出てくるたびに辞典で調べ、身につけていきました。それでも、例えば模擬試験で初めてでてくる古文を「読めた」という感覚を持つことはありませんでした。文法や単語についての知識と古文が読めることがつながっていなかったということです。

さて、K師の授業といいますか、この学校の古文のテキスト、とにかく文字が大きかったこと、そして、注釈がないこと、会話文の「 」のないことが大きな特色でした。これは、音読も含め、しっかりと文章自体を読んでほしい、そして文意を理解してほしいとの願いが込められていたように思います。また、大学受験生向けのテキストであるにもかかわらず、設問がほとんどありませんでした。問題を解くテクニックは不要、古文を読めることが大切ということです。実際、このテキストで学ぶことだけで多くの受験生が東大をはじめとする難関大学に合格したわけですので、このやり方が正しかったのでしょう。

古文では、しばしば主語が省略されますし、地の文と会話文の区分もつきにくいものです。先生の授業では、主語は誰なのか、会話文はどこなのかを特に大切にしていたと記憶します。たしかに主語と会話文がわかると、何となく読めるようになってきたのです。先生は、「古文といえども、日本語ですから、何となくわかる感覚を大事にしてください。」とおっしゃっていました。「原文のままでわかる」を旨としていたのです。実際に、このような読み方ではじめて古文が読めたという生徒は、この学校にはたくさんいたのです。

確かに、冷静に、あるいは否定的に考えれば、文法をしっかりと学んでいないと誤訳することもあるわけで、先生のおっしゃることすべてが正しくはなかったのかもしれません。別の意見を持つ講師もいたはずです。しかし、私にとって、いくら文法を学んでも、単語を覚えても実際の文章を読めなかったのに、先生の教えで読めるようになったことは、ほんとうに驚きであり、喜びであったのです。読めるという喜びが生まれるにつれて、必要に応じて、文法も改めて学ぶようになりました。長年染みついていた古文への苦手意識は、わずか数ヶ月でなくなり、好きな学びへと変わりました。すべてK師のおかげです。

●教育者としてのK師

一年間で、先生の温かいお人柄、貫いてお持ちの信念に幾度もふれることがありました。
そのたびになるほどど思い、勇気づけられたことを思い出します。先生の授業では、様々なお話をお聞きするのも楽しみだったのです。私の通っていた学校は、一教室にだいたい二百名の生徒が入ります。ある日、先生は、「二百人も相手にする授業なんて、教育ではないという人がいますが、とんでもありません。私は、生徒が何人いようと、一人一人と一対一で向き合っています。それが魂のふれあいです。」という趣旨のことをおっしゃいました。私は常に先生の話を真剣に聞いていました。先生はいつも本気で授業をされていました。先生の授業でよくわかったと納得することは何度もありました。その時は、他に何人の生徒がいようと関係なかったのです。それはまさに一対一なのです。一対一の真剣勝負です。一斉画一授業では、個々に対応できておらず真の教育にならないという意見もあるのでしょうが、必ずしもそうでないと私は考えています。この時に感じたことは、それからの私の教育に対する考えに大きな影響を与えています。先生に対する生徒の数が問題なのではないということ、私は今でも肝に銘じています。生徒数が何人に増えても、教育は一対一ということだと思います。なぜ、個別指導をしているのですかと突っ込まれそうですが、指導スタイルが大事なのではありません。ひとりのお子さんがどのように力をつけていくかが大切だという気持ちに変わりはありません。

ところで、先生の作ったテキストや模擬試験で取り上げた文章は、しばしば東大の入試問題でも取りあげられました。通常ならば「的中」ということで宣伝するのでしょうが、学校も先生も、これは当然のことと、とらえていたようです。「私は、皆さんに力がつくような作品を取りあげているのです。そういう作品が入試で取りあげられるのです。」という趣旨の話をされていました。的中させることにも、宣伝するということにも、全く興味がなかったのだと思います。

「原文のままでわかる」、これは古文での教えでしたが、この学校では英語のI師も、これと同様のことを教えてくれました。英語のまま理解する、そして必要に応じて、日本語に訳すということと理解しました。アカデミックな雰囲気を持った、まさに学校と呼ぶにふさわしい予備学校でした。ここで一年間を過ごしたことは、私によって大きな財産だったと思います。前回、今回と少し思い出話をしてしまいました。次回からはまた、入学試験の分析を行っていきます。