●四十年前の予備校生活

今からおおよそ四十年前のことです。現役高校生の時、大学合格とは縁のなかった私は、一年間、予備校生活を送りました。私は、ある県の最北端に位置する地方にある自称進学校を卒業しています。現役時代は、東京の大学をすべて不合格、その後まもなく、予備校の入学試験を受けに、改めて上京しました。予備校は何とか合格、予備校の寮に入り、一年間、船橋からお茶の水に通う生活を送りました。

さて、予備校の講師からは高校の授業よりずっと多くのことを学んだと思います。一年間の予備校生活は無駄ではありませんでした。その後の人生にも少なからず影響を与えたように思います。当時は浪人する生徒が今より多く、一年間しっかり勉強してから大学へ行こうという気持ちでの受験生活でした。この時にお世話になった先生方のなかでも、国語の先生お二人のことは今でもよく覚えています。今回と次回のブログではこのお二人のことを記していきます。

●「イイタイコト」をつかむことの大切さ

お一人めは、現代国語を担当されたF師です。現代国語の授業、高校時代、それは退屈なものでした。テキストの文章を説明するわけですが、なぜそういう意味なのかなどの説明はなく、ご自身のいわば主観的な解釈を聞かされているだけの印象です。このことがわかったという喜びも、なぜこう読めるのか、読むべきかの腑に落ちる説明はひとつもありません。学校のテストは暗記勝負、たまに実施される模擬試験はその時の運しだいという状況でした。いっぽうでF師の授業は独自の読解法により人気だということを事前に聞いていた私は、楽しみに最初の授業に臨んだことを覚えています。

この先生の読解法は、記号読解というものでした。文中のキーワードにAやBなどの記号をつけて、それを対比しながら文章を分析していくやり方です。人間の脳をコンピュータと比較しつつ論じた論説文があったとします。ここで脳に関わるものをAとして、コンピュータに関わるものをBとして対比し、整理しながら読み進めると、「筆者のイイタイコト」が明らかになるというものでした。たとえばAには、生理的記憶、忘れないで記憶だけするということができない、(比喩として)砂浜の上に書く文字などが当てはまります。対してBは、機械的記憶、いつまででも、記憶していることを再生できる、紙の上に書く文字などになります。

授業では、ほとんどの論述文をA対B、AとA´、あるいはAからBへなどの手法で分析していきました。私はこの読解法を入試でも実践しましたし、たしかに一年間で国語の力は伸びたと思います。ただし、このやり方ですべての文章が読めるようになったかというと、そうでもなさそうです。また、この方法だけで、すべての入試問題が解けるわけでもありません。実際、師の授業あるいは著書で、論述問題への対処法、選択肢問題の解き方のテクニックなどを、具体的に解説することはありません。その点で、私自身、やや消化不良を起こしたこともありました。また、記号読解自体が、普通に精読していけばできることをわざわざ法則化しているという考え方をする人も、一方ではいたようです。

●F師から学んだこと

それでも、この先生の授業は私には衝撃がありました。先生は、筆者の「イイタイコト」をつかむことが大事だといつも強調していました。記号読解は、そのための一つの方法だというわけです。私は「言いたいこと」と書かず、「イイタイコト」とカタカナで記しているところにも新鮮さを感じたものでした。とにかく、現代国語の授業で、国語とはこういうものなのだよと、筆者の「イイタイコト」をつかむことだとはっきりと示したくれたことに衝撃がありました。もしかしたら、「イイタイコト」をつかむことでなくともよかったのかもしれません。それまではなんとなく学んでいた国語でしたら、国語はこのように学ぶものだという指針をはっきりと示してくれたこと自体が、大きな私への影響でした。

この「記号読解」、そして「イイタイコト」をつかむことなのですが、その後の人生で意識しなくとも自然に活用しています。文章を読むときだけではありません。文章を書くときもそうです。たとえば大学時代には、レポートや論文を書くとき、自分自身の意見とそうでない意見を整理しながら書くときに用いていました。もちろん、「イイタイコト」を常に念頭に置きつつです。これに必要なのは感性ではなく、論理です。論理的思考力と言い換えてもいいでしょう。この力は、国語だけでなく、すべての教科、あるいは人生の様々な場面で生きるものです。もちろん、大学入試だけでなく、高校入試や中学入試でも必要な力であることは、言うまでもありません。

●大人になってから役立つ学び

さて、とりわけイイタイコトを意識した学びが役に立ったのは、社会に出てからです。私は三十年以上、一般企業で働いていました。広告会社にいたころの話です。新しい事業の立ち上げの稟議書を書く時、自分が何をしたいのかを、筋道立てて書くこと、他人にわかるように書くことが求められました。この力は、他人が作った文書を読むときにも当然役に立ちます。何を言おうとしてのかわからない文書に対して、ここをこう直せばいいと指摘するには、やはり論理的思考力が必要です。この力が不足している人の多さを実感しました。 実際の社会では、自分で話す力、書く力、相手の話を聞く力、他人が書いたものを読む力が必要とされます。このときの基礎には、論理的思考力があるのです。

四十年以上前に学んだ記号読解ですから、今の入試問題を解くのに最適な方法だとは思いません。より優れた読解法はあると考えます。ただし、当時十代の私には、画期的なものでした。今でも常に自分のイイタイコトは何か、相手のイイタイコトは何かに留意しています。また、文章を読みとき、イイタイコトは何度も表現を変えつつ記されていること(A、A´)、イイタイコトをより明確にするため、別のものと対比させて文章が構成されること(A対B)を意識しています。今思えば、この先生が初めて私に論理的思考力の大切さを教えてくれた人だったということになります。次回は、もうお一方、古文の先生のお話をしようと思います。